望まないつもりだった。決心したつもりだった。
でも、本当は―――――――――――――
ぱたりと閉まった障子の音を合図に、動乱はくしゃりと表情を崩した。
今にも泣き出しそうな顔を見られたくなくて、すぐに片手で顔を覆い俯く。
「若」
宥める様な困惑している様な声はけれどとても慈しみに満ち、動乱はぐっと奥歯を噛み締めた。気を抜けば溢れてしまいそうな感情は、どれもこれもが先行して動乱を混乱させる。
笑いたいのに笑えず、泣きたくないのに涙が溢れ、怒りたくないのに心には小さな棘が刺さって抜けず、自分で自分の感情を制御できずに、途方に暮れた子供の様に肩を震わせて小さく蹲った。
「若…」
柔らかな響きで落ちてくる声と、少しだけ逡巡しながらも優しく頭を撫でる手に、動乱は耐え切れずにしゃくりを上げた。ぼろぼろと零れる涙を止めることなど出来なかった。
「とらっ、にぃ…」
震えながら呼びかけた声に、はいと返される穏やかな声。
どれほど望んでいただろうか。もう、記憶の中でしか向けられる事などないと思っていた温かさに満ちた眼差しと涙を拭う指先の熱。何時だって動乱が求め、そして諦めていた彼の存在。羽根を向けながら、けれどずっとずっと、動乱は願っていた。
決して声には出せない願い事を、押し隠しながら、それでも心から。
「泣かないで下さい。若に泣かれると、どうすればいいのか分からなくなる」
「ははっ…泣かせてんのは、虎兄ぃ、だろ」
心底困った様に、けれどどこまでも優しい声で、赤く擦れた目元を撫でながら虎兒は
眉を下げる。その情けなくもどこか懐かしい表情に、止まらない涙のまま動乱は笑った。思えば幼い頃、動乱が泣いていたその時には何時だって虎児が側に居て、こうやって溢れる涙を拭ってくれていた。どこか困ったように、けれどそれ以上に優しく笑いながら。
「懐かしい…な」
「…えぇ…若は昔は泣き虫でしたから」
同意の言葉は、柔らかな微笑と共に返され、動乱はぐっと溢れそうになる涙を堪えた。先程の戦いで、たとえそれが本心ではなかったとしても否定された過去は動乱の胸を深く抉った。優しい過去にしがみ付く己の浅はかさは誰よりも自覚していたけれど、それでもそれは動乱にとってとても大切なものだったから。だから今、こうやって受け入れられているという事実が、声を上げて泣き出したいほど嬉しくて幸せでしょうがなかった。その先を、恐れる程に。
「虎兄ぃ…オレは、さ…強く、なれたのかな」
「……」
「今だって、オレは、すごく、嬉しいんだ……きっと、許されない、けど」
それでも貴方が生きていてくれて嬉しいと、ぎゅっと、虎児の服の袖を握る。
震えそうになるのは、否定が怖いからだろうか。あの頃は、何一つ疑うことなどなかった事を、こうやって確認しなければいけなくなった事への悲しさの為だろうか。戦慄きそうになる口元の精一杯の笑みは、虎児にはどう映っているのだろう。
「…けど、それでも……オレは、虎兄ぃと一緒に、居たいよ」
それは、誰にも打ち明けたことはないけれど、何時だって願っていた事だった。
また共に笑い合う日を。悲しい夢想だと知りながらも、ずっと、ずっと。
「…も、オレを…ひとりに、しないで」
くしゃりと歪んだ表情から涙は流れる事はなかった。
けれど、声だけ悲痛なまでの感情に溢れ、虎児は衝動的に目の前の細い肢体を抱き寄せた。抵抗もなく腕の中に倒れこんだ体は、すぐに縋るように虎児の胸元を握り締める。まるで離れる事を怖がるように必死に握られるその両手は、記憶の中の小さな子供のそれと重なり、虎児の胸をきつく締め付けた。
「某は、あの日より何をおいても貴方を守ると、誓った」
震える背をそっと撫でながら、あの日の、そして今尚の誓いを口にする。
少しだけ硬さを増した緋色の髪はけれどあの頃と変わらずに温かな色だと瞳を細めて、愛おしい子供の熱を抱き寄せた。
「けれど、某は貴方を守ることも出来ず、また貴方の為に命を懸ける事も出来なかった。…某には、わが身の価値など見出すことが出来ません」
「っ!とらっ、」
「されど、貴方が望んでくださるのなら、この様な身でも価値を、見出せる」
不穏な虎児の言葉に慌てて上げられた顔に、柔らかな笑顔を向けて。
虎児は何よりも大切で、何よりも愛おしい主に、心からの忠誠を誓う。
「わが身のある限り、貴方のお側に」
瞬間、見開いた緋色の瞳は、あの頃と変わらず、ただ真っ直ぐに虎兒を見つめた。
零れ落ちそうだった涙を拭えば、緋色はくしゃりと歪み、
やがて虎兒が一番好きだったあの幼き頃の笑顔をその顔に浮かべて。
「おかえり、虎兄ぃ」
離れないで欲しいと願った。
離れたくないのは同じなのだと、離れていても同じ想いを抱いていた二人は、やっと叶った願いを違えぬ様に、互いの存在を確かめる様に抱きしめあった。
2010/04/23